西木倉館跡

西木倉での聞き込みで少し分かったかも(^-^)/



西木倉字追戸に館の山という館がある。かつては一帯が山林で約80メートル四方の館があったと推定される。(那珂町史,中世・近世編より)

水府志料にも,「古屋鋪たての山といふ字の所にあり。何人の居住せしを知らず。」とある。

一説には,佐竹の支族北左衛門義斯の居た所といわれている。


那珂町史から山林であると言う事,城郭は溜池が無ければならないこと等を頼りに西木倉に向かった。



まずは,参考にした1980年の西木倉の空中写真。溜池のようなものはあるが,変に人工的だ?山林は北側だ。

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次に,現在の西木倉の空中写真。溜池はなくなっている。ついでに山林は北側になる。小場江用水に面した南側は今は山林ではない。

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今日,それらの資料を元に西木倉へ向かった。結果的に見て,次のような事を聞き取りと足で考えてみた。「西木倉館跡は,山林を含む那珂台地の上にあったのではないか。」ということ。水色の破線で囲んだあたりが館跡かなぁ~?と。

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※黄色の矢印は,養魚場を埋め立てるための土の動き。機械は西の道から入ったそうだ。




付近の方に上のほうに水が湧き出る所がある。城は向こう(上の方?)じゃないのかと聞いた。ここでも城は向こうの方というのが聞けた。


昔池のあったところ「1」は今は湿地っぽいが何も無く,小川は流れているが,2に本当に大きな木も無いし,切り株もない。葦のような草が生い茂るのみである。養魚場を埋め立てる時の残土がそこら辺一体に押し出された感がある。小場江側から見ても,此処だけ木が生えてないし,他と景観が異質なものになっている。

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また付近の別の人に話を聞いた所,戦前は1付近に日立製作所が,那珂川から勝田まで水を引くために貯水する円筒型のコンクリートのドラム缶型の貯水タンクがあった。それも終戦で終わりになった。

その後,40年位前に此処が県立水戸農業高校の代替地になり,そこの地主は趣味か営利か分からないが,金魚か鯉の養魚場を作ったとのことだ・・・・1。それも今は壊されて葦や蔓の生い茂る草むらになっている。

それを埋め立てるのに,土を4から切り取って1,2を埋め立てたこと。溜池は3(当時はもっと北まであったと思われる)であることが分かった。館跡は下ではなく上のほうだったこと。

画像はUPしてないが,2からは,コンクリの枠の様なものがはみ出してるのを見ることができた。

確かに見ると,4の高い山林が無残にも削り取られている。太い木が高い所に見える。その下をくりぬくように土が削られている。これで,養魚場一体を埋めたのだ。随分と山林がなくなったように思われるが・・・

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昔溜池だった3.山林の西側に今は湿地だが,いかにも溜池然とした風情だ。その北は,今も凹んだ地形で家が建っているが,昔は溜池が奥の方まであったのだろうか?

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山林によじ登ってみた。かなり高い。山林を南から北に進むと,まるで高い土塁の上を歩いているようだ。西側に昔溜池,東側には削られて切れ込んだ崖があり,やはり台地から水が染み出ている様子がある,5の箇所。コレは豚舎の裏

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出た所は,畑が広がる那珂大地だ。右が4の山林・杉林で,ここから私は出てきた。山林は土塁上を歩いてきたようにも思えるが,単なる溜池と削られた土地に挟まれた所のような気もする。正面の竹林の向こう側は,深く斜面になって,削られたこともあり南東側に向かって落ち込んでいる

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その後,北へ進んで,7の龍瀧不動明神で湧水を見つけた。此処の水が溜池に流れていたのだろう。いわれは書いてなかったが,立派な祠に祭られて年代を感じさせる不動明神様がいらっしゃった。館のあった当時のものだろうか。此処の不動明神の存在も館との繋がりを考えれば,館は大地の上ということになろうか。脇の製麺所で大切に祀っていた

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南北は崖?斜面になっていて堀はいらない地形に思えた。西側と東側は畑や人家になっていて何処までがというのがハッキリせず,80ⅿというおよその距離で地図に線を引いた。少し横に大きかったかな?




此処の那珂台地の南側は遺跡の多い所である。近くに狐塚古墳があった。小さいながらも前方後円墳で立派なものだった。

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殆ど手探り状態で向かったが,資料は殆ど全てといって良いほど城戸克人氏が収集したものである。大変お世話になりました。

また,現地での聞き取り・・伝承と言うものの大切さを改めて思い知った1日だった。

なおこの,西木倉館は西木倉では植田城と呼ばれていた。



西木倉館跡場所修正案,2/17,午後11時50分



土塁は家ノ裏の竹薮に少し存在していた。その土塁を生かして・・・

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それから妄想した館の図案,如何なものか?削り跡は馬鹿にならない大きさ(笑)

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