十五郎穴横穴墓群

 
虎塚古墳のある東中根台地の崖面に作られた
 
十五郎穴横穴墓群 は,日本最大規模の横穴墓群である。
 
 
 
以下館出支群にある看板の説明


         茨城県指定史跡 十五郎穴                     
   
                                                           指定年月日  昭和15年3月11日     
                                                           所在地    ひたちなか市中根3490-イ
                                                           所有者    西野茂行            
 
 十五郎穴横穴墓群は奈良時代(今から約千二・三百年前)に作られたお墓です。十五郎穴横穴墓群のように台地の崖の所に横から穴を掘り、つくられているものを横穴墓といい、群集していることが多くあります。
 横穴墓は玄室・玄門・羨道・前庭部などから構成されており、古墳の横穴式石室と類似した構造になっています。
 十五郎穴横穴墓群は、館出。指渋地区などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれて分布していますが、このうち館出に群集している34基が茨城県の史跡に指定されています。横穴墓からは須恵器・直刀・装飾品など多くの副葬品が出土しています。
虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖では、約120基が発掘調査で確認されています。十五郎穴横穴墓群全体では数百基の横穴墓が存在していると考えられ、我が国を代表する貴重な史跡です。
 十五郎穴の名称の由来は、この地に十郎・五郎なる人物が住んでいたという伝承から生まれたということです。

                        平成17年3月                                                                       
 


 
 
 
 
 
虎塚古墳と周辺遺跡の地図上の十五郎穴
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北から
指渋支群は,シートを被っていて見学不可能(埋文のある台地)
館出支群は,虎塚古墳から歩いて直ぐ。上記説明の看板が有り,横穴も露出していて良く見える。虎塚2号墳のある台地)
笠谷支群は,虎塚古墳から1㎞とチョット。民家の下にあり,良く見ないと見逃すかも。(東中根台地南端)
 
 
 
 
 
 
十五郎横穴墳墓・館出支群
南側から
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北側から
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横穴の中
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何か模様が掘ってある様な感じもするが気のせいかも
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コンナ所も
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マムシ注意
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十五郎横穴墳墓・笠谷支群
谷津を挟んだ南側の笠谷古墳群のある台地の崖面にあり,民家の庭下。良く見ないと見逃す?かも
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横穴 刈りこまれてる庭木の下の崖面にある
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ありゃ?資材置き場に成ってるし
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庭の植物に隠れるようにある横穴,良く見ないと見つからない。随分見逃してると思う。
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コレはかなり目立った。目印に成る
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 横穴墳墓をグルット囲むように本郷川が流れており,墳墓の下は田に成っている。
 
 
 
 
※出土品について
朝日新聞デジタル  2012年2月8日23時32分より
 正倉院宝物に酷似 金具つき小刀、茨城で出土
http://www.asahicom.jp/national/update/0208/images/t_TKY201202080612.jpghttp://www.asahicom.jp/images08/common/icn_zoom.gif十五郎穴横穴墓群から出土した刀子。さやは朽ちていたが、刀身と正倉院宝物に酷似した帯執金具が完全な形で残っていた=茨城県ひたちなか市教育委員会提供
 
 茨城県ひたちなか市にある集団墓「十五郎穴横穴墓群(じゅうごろうあなよこあなぼぐん)」で、正倉院の宝物に酷似した金具のついた刀子(とうす=小刀)が出土したと、市教育委員会が8日発表した。同様の金具は2009年に奈良市西大寺食堂(じきどう)院跡などでも見つかっているが、「刀身のついた完全な形としては全国初ではないか」という。
 刀子は、一緒に見つかった須恵器の年代などから8世紀中ごろのものと見られる。鉄製の刀身(25センチ)のほぼ中央には、腰に下げるための銅製の帯執(おびとり)金具などが良好な状態で残り、表面には金が施されていた。当時、刀子は地位の高い役人などが装飾品として身につけていたという。
 奈良国立博物館の吉沢悟研究員は「1950年に近くの横穴墓から正倉院宝物に似た大刀(たち)も出土している。こうした刀類は地元で作られたとは考えられず、中央が常陸(ひたち)の国(現在の茨城県)を重要視し、それを支えた人物がいたということを裏づけるものだ」と話す。
 刀子の見つかった横穴墓は入り口部分が土砂で埋まっていたため、盗掘を免れていた。試掘調査が始まった10年12月には数体分の人骨や大刀といった遺物が確認されたが、東日本大震災などで本格的な発掘調査が遅れていた。
     ◇
 古墳時代や古代の大刀に詳しい瀧瀬芳之・埼玉県埋蔵文化財調査事業団調査第二課長の話 装飾の程度から、武人層の所有品だったのではないだろうか。有力な官人がこの刀子を持って葬られたというよりも、中央の官人からこのような立派な刀子をもらえる立場の人物が周辺にいたと解釈すべきだ。この地域に、中央との強いつながりを持った武人層が継続的に居住していたことがうかがえる。製作時期は、奈良時代よりも少し下る可能性があるだろう。