水戸城の写真 と 驚きの塀

今日は
 
変な日で 頭を天井の梁に嫌と言う程ぶつけて ☆⌒(>。≪)イテェ 
 
目から火が出て,コブが出来て
 
何時の間にか,腕を2か所切って流血していて ..・ヾ(。><)シ ぎょぇぇぇ
 
そう言う自分に驚いて,ショックを受けて
 
珍しく午前10時頃から動かないでいた。
 
歳のせいだろうな (>_<)
 
 
 
 
 
それはそうと,アッチヽ('_' ) ( '_')/コッチ 朝から片づけていた時に
 
水戸城 焼失前 ホンモノ 写真 出てきた。
 
チャンとした写真館が撮ったもので,勿論 白黒 だ。
 
大きい
 
大事にとっておこう。
 
 
 
 
 
数日前に,水戸城の近くの水戸城跡通りを歩いてきたばかりだった。
 
まぁ其処で驚くことがあった。
 
大手橋を渡って
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大手橋から下を見ると立派な堀切がある(三の丸~二の丸の堀)。水戸駅へ向かう自動車道だ。
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大手橋を南へ進んで行ったら,何時もの光景で枡形のある土塁。左が水戸二中,右が付属小
右奥の土塁の前に水戸城跡の説明看板がある。
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水戸城跡説明看板 by 水戸市教育委員会
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↑の文を写しました。
茨城県指定史跡
水戸城跡(塁及び濠)
指定年月日 昭和四十二年十一月二十四日
 水戸城平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現水戸一高)に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠をもったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えたのである。
 十五世紀はじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、水戸ニ中、水戸三高)を築くなど城郭を拡張して約百六十年余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、天正十八年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。こうして五十四万石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長七年(1602)秋田への国替えを命ぜられ、僅か十三年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長十四年(1609)に第十一子頼房が藩主(二十五万石、第三代綱條の時から三十五万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。
 
 
大手橋をすぎると
w(゚o゚)w オォ- アレッ?此処は何処の御屋敷だろうって感じに成っちゃった((((((^_^;)
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中学校があったはずだけど キョロキョロ (・_・ ) ( ・_・) キョロキョロ
あっ!此れは中学校の正門なのかしら φ(□□ヘ)ナニナニ?え~~~~~っ
水戸市立第二中学校
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体育館も校舎も瓦屋根だし \(◎o◎)/!です。
オマケに,此の白壁の塀は・・・・・・・ず~~~~~~~~~~っと建造中で
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水戸城本丸方向から見ても 長~~~~~~~~~~い。
大手橋の土塁から~~~~~~~杉山門の手前のシイの木付近まで
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でも,反対側の国立茨城大学付属小学校側は
同じ様にする予定はありません キッパリ!! だそうです。
あちらは,水戸市の遣る事,此方は国立ですから・・・・・・う・(゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン そうですか。
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同じ水戸城跡通りの国立付属小学校側に並ぶ県立水戸第三高等学校もこの通り
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同じ二の丸跡にあって,国立と県立と市立足並みはそろわないんだ
三の丸跡にある水戸市立三の丸小学校も,この水戸市立第二中学校のようなレトロな白壁の塀と校舎なんだけどね。
 
杉山門跡の坂道を下ると,自然の堀・那珂川が見えてる。
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水戸城跡通りを更に進むと 本城橋が見えてくる。橋の向こうは旧本丸跡に建つ県立水戸一高
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橋は本丸~二の丸の間の堀切にかかる。堀底をJR水郡線が走っている。
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橋を渡り切って,水戸一高にあるお馴染み薬医門・唯一の残存建造物かしら?違うかな?
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まぁ,行政によって対応が違うのは仕方がないと言えばそれまでだけど
同じ水戸城の二の丸に在って,
通りの右と左で見た目が違うってどう(゚゚;)\(--;)・・・ナッテンでしょうね。
 
水戸市が頑張って,県や国を動かして干しいモノですネ。(^人^)オ・ネ・ガ・イします。
 
 
 
 
 
ところで,幕末の水戸城復元図   「徳川慶喜と幕末維新の群像」成美堂出版(株)より
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1 本丸 2 二の丸 3 下の丸 4 三の丸 5 大手門  6 千波湖  7 杉山口門 8 三回櫓 9 御殿
 
徳川御三家水戸藩の居城 石垣や天守閣はない。北に那珂川 南に千波湖 東は崖 台地上に築かれた連郭式の城。西側に五重の堀 本丸、二の丸、三の丸が直線にならぶ。
 
 
 
 
 
 
濠が立派だったから
本丸も立派だと思うでしょう。本丸は武器庫・食糧庫に使われていたそうで
二の丸に水戸城三階櫓があり,其処が所謂水戸城(居城)?なのかしらネ。外観は三層,内部は五層の平城だとのことです。
でてきた写真は
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此れです。
水戸市の丸山写真館のサインがあり,台紙に貼った白黒写真が壊れた額に入っていました。
 
 
 
 
 
 
 
新しい額に入れて飾っておこうと思います。
空襲で焼けてしまって 水戸城は今は有りません ので。