小六内の場所
町史の研究10号の第14図と1074年と現在の空中写真を比較した。 |
祠の場所に石碑を建てたそうなので、第14図はおかしい |
水路の位置を基にして考えると、東へ平行移動するとよいカナ? |
すると、現在でも林として残っている場所・竹林・・・チッチャイけど・・・あるではないか\(◎o◎)/! |
ということで,遺跡の欠片を探しにGO! |
まずは町史の研究第10号P44~図P55より。水路を東へ移動して方角を直して | |
1974年の空中写真に移動後の小六内を書いてみるとこんなんかなぁ~♪ | |
でもって,現在の小六内周辺を空中写真で見てみると,東に移動後の小六内の遺構の中に在ったであろう竹薮が残っているではないか。よし,行こう!と言われて行って見た。「ハンノキ」も覚えておこう(笑) | |
が,竹林に入っては見たものの・・・・,南に向かって傾斜があるだけで特にこれと言うほどのものは見つからなかった。 | |
では,現在の空中写真に記した「ハンノキ」の所から東を望むと,まさに,これは水路っぽい感じはする。ずっと凹みはあるのだ。その向うに寄居館(土手中),南西に堀之内館を臨む所にあった。現地に立つと良く分かる。 | |
ここは,ハンノキを背に竹薮に向かった所。やはり凹みがあり水路っぽい跡の感じがする。画像が違っていたので差し替えです。 | |
小六内の祠の跡に今は石碑が建っている。東を向いて集会所の南側に,御神木の柊も枯れてひっそりと寂しげだ。 | |
竹林の西側にあったフキノトウ。昔はたくさんあったんだろうな。 | |
那珂町史の図が西にずれているという確証は無いものの,現地に立って,以前からお住まいの方の家もあるようなので,聞き込みをすれば真実が何か分かるのかなぁと思った。 |
那珂町史の図,竹薮に関しては城戸氏の疑問から現地での検証を試みたが,実際城戸氏の疑問は的を得ているようにも思えた。町史の図の位置には石碑は実際無いから。もっと東だから。 |
祖父の土地の中にこの小六内館跡はあった。が鹿島台団地を作るために,町のほうから半ば強制的に格安で買い上げられてしまった。町の職をにあった祖父は反対も出来ず供出したような形になったが,今思えば残念で仕方が無いが,祖父としてもどうしようもなかったのだろう。 |
小さい頃に行った小六内の館跡は,篠や笹しか記憶に無いが,自分の足で確かに自分の祖の館跡を踏んでいた。祠さえ覚えては居ないのだが・・・。 |