備前山館の?
はたして館跡だったのか?備前山館
中町史の備前山館の図(約20年前)出っ張り凹みはわかるが、それがどういうものなのか見なければ分からないということで出陣 | |
現在の備前山館の上空からの様子。当時の面影がくっきり推測できるような感じだ。後ろ半分は、左側面は、陸田や畑や家で破壊されている様子も分かる。 | |
現在の歩いて調べた図。土塁が無いのと全体に低いのにびっくり。外堀に水が溜まると道に水が上がってきたらしい | |
山林内の東北東~西へ突っ切る形で、昔は堀だったと思われる道 | |
前面の堀、北西の角は現在家の玄関の下。昔はR118号線より西の方まで山だったとのこと。水が出たこともあった。(聞き取り) | |
湿地、北東の端は那珂町史の図よりかなり細くなって南東の方への水路で水が吐けたのか?な(推測) | |
失われた後面側(陸田側)から森の様子。畑にして使っていた頃は、堀もあったが、陸田にするときに埋めたそうだ。土塁に関しては覚えが無いとのこと。(聞き取り)。やはり土塁は無かったのだろうと思われる。 | |
これは、本当に館跡なのか?本郭があったと思われる場所があまりにも狭く、家2軒分くらいしかない。こんな狭い、湿地と低地の間に本郭を作るかぁ~?やぐらでも組んで2階部分に住むとか?まさかね(笑) |
ところで、備前という名で水戸の備前堀を思い出すが、
実は水戸の備前堀は、伊奈備前守忠次(1550~1610)が家康に初代関東郡代に
任命された時の治水で完成した掘りだ。忠次の像もある。
関東軍代の管轄地は、現在の東京、神奈川、千葉、茨城、群馬、栃木である。
広いなぁ~、車も無い時代によくもまぁ\(◎o◎)/!ダワ
伊那氏は家康の第五子 武田信義吉が水戸城主当時に、常陸の国の検地をしていた。
伊那氏は菅谷村の代官屋敷にとどまり備前堀(水戸)を完成した。
後に、慶長年間、菅谷のみのうち館(現在は箕の内団地となり消滅)の館主、柏村越前守が
徳川家臣の伊那備前守に請われてこの地を譲ったらしい。詳細は略
菅谷村の代官屋敷とはみのうち館のことではないか(推測)
その伊那氏が飯田の備前山館を築くではなく
・・・・跡といわれる所の治水工事をしたので
工事をしたお偉いさんの名を頂いて備前山という地名になったのかなぁ?
本郭と思われている部分には、本郭ではなく別な何かがあった?
・館にしては狭い
・本郭内の低地が不自然
・700m北に胴前池、東に大洞溜がある
従って館跡というより、溜や池の水の調節をする治水設備なのかなぁと推測する。
でもチョット不思議なこと |
1 五輪の塔の頭が出たとの事実があるので、確認を取ったが、実物は確かに在ったけど 「何処に言ったのか?確かにあったんだけど・・・????」状態(聞き取り) 2 備前守忠次の墓 明治3年、五台村上宿の源長寺が廃寺になり、額田の引接寺に移されたとの伝承があるが 引接寺住職は、うちには位牌も墓も無いと言う(聞き取り) 実際は、歴史探訪のHPによると、埼玉県鴻巣市の勝願寺に墓はあった。他にもレポートしてる 記事は多数