2012-11-24 戸村城址 2 #人類学と考古学 戸村城址 1 からの 続き 念のため,再度戸村城址1にUPした 戸村城の縄張り図 ⑥の土塁の上 ⑤の南側の土塁の上から東を眺める ⑥の北城と坊小屋が隣り合わせになる付近(④と⑤の堀が合流する付近)の土塁から ↑の土塁上から堀底を見ると 可也深くて怖い!!*1.。ooO(~ペ/)/ ⑥から西に向かう土塁 北城内にある家の方の許可を得て登った。土塁にコンクリートの階段が有り土塁上に祠を祀ってある。 ⑥の土塁の上 坊小屋側の堀は篠が凄くて,急峻で足元も悪くデジカメできず。土塁も屋根より高いが堀底は限りなく深い感じがした。 内廓を囲む堀・土塁は可也の規模で見事だった。 やはり,合戦をした城と言うのは,実践的な城郭として整えられていったようだ。防衛対象は,水戸城と那珂川対岸に勢力を持つ江戸氏だった。 此処で内廓を後に 街道まで出て,戸村城の出城・文殊院 に向かう その途中⑨で出会った石仏 話が戻るが,城の南側の街道の出入り口付近を「表小屋」と言うが,此処は東西に谷地が入り込み,城の正面防衛の施設が有ったと思われる。また此処の谷地の南西対岸の台地突端に文殊院がある(代々戸村氏の祈願寺)が,その南と東側に大きい堀が有り小場江が流れている。 土塁は文殊院の対岸にある土塁の上。 画像右下が堀に成る 東から南へ回り込む小場江用水(堀) 古い堀を小場江のため更に掘り下げたと考えられるそうだ。(左側が対岸の土塁) 戸村城の出城と考えられる文殊院 関ヶ原合戦後の慶長7年(1602年)佐竹義信宣が秋田に国替えされるに至って,七代目の戸村義国これに従い秋田へ行ったため戸村城は廃城となった。 *1:p(>_<)q