1,2,3で欲張り過ぎかなぁ~~●))))☆O=(`_` )パンチ!
今年は初詣に1,2,3・・・・とやってしまった(^o^")V イェ-イ!!
↑意味不明((((((^_^;)
じつは
常陸の 一之宮 二之宮 三之宮 と 初詣 に行った。
実際は一之宮は初詣の時間が無く,
一之宮に縁のある神社・菅谷鹿島神社で済ませてしまった☆α==(・・#)パーンチ
菅谷鹿島神社
祭神 武甕槌大神 たけみかつちのおおかみ
本当は,権現塚古墳の被葬者が,静神社の祭神と深い関係のある方らしいので御挨拶にお伺いしようという思いだった。が,二之宮に行ったら三ノ宮にも行きたくなって・・・・・・,どうせ一之宮の分祀である鹿島神社に詣でているし)^o^(
山に入っていくような参道の階段を上がって
たったの百五十段だけど・・・・。ネッ
拝殿は重々しく
御神木は ドーン 樹齢推定1000年,天保12年の火災で枯れた
神社の裏に回ってみると,注連縄が張ってあって????石が積んである?何だろう(・_・?)ハテナ?
静神社 東側の参道 此の先の北西に権現塚古墳(新宿・上宿古墳群も)がある。流石に見えない。
此処で止めても良いのに,つい調子混んで
常陸三ノ宮
吉田神社
吉田神社の門
拝殿
裏に回ってみると,此方は注連縄も無いけど,石も積んでない?モットも積む石も無いけど(・・?
末社のうち 水戸神社 飯神社
茨城百景〜吉田神社の見晴台 神聖な域である朝日三角山遺跡
三つの神社に初詣したけど,一之宮はインチキ?したので
来年 はチャンと計画的に 常陸一之宮にも初詣 で来たら良いなぁ~
※ WEBページ
菅谷鹿島神社
WEBページより
静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。延喜式名神名帳(927年)にも、鹿島神宮などとともに、「名神大」と記され豊臣家から社領として、150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されたいます。常陸ニの宮としても古くから信仰を集め、初詣、節分祭、そして神事の「つた舞」「お笹明神」が行われる秋の大祭(11月25日~27日)は、多くの参拝客でにぎわいます。主祭神は 建葉槌命(武神) (たけはづちのみこと) 名倭文神(織物の祖神) (しどりのかみ) 相殿神は 手力雄命(たじからのみこと)高皇産霊命(たかみむすびのみこと) 思兼命(おもいかねのみこと) でもある神門の前には、昔ここが織物の里であったことを示す『常陸国風土記』の碑が建っています。
本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められています。水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。
天保12(1841)年の火災で、徳川光圀が造営した社殿が焼失。現在の壮厳なたたずまいの本殿・拝殿は、水戸家9代藩主斉昭が再建したものです。
本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められています。水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。
天保12(1841)年の火災で、徳川光圀が造営した社殿が焼失。現在の壮厳なたたずまいの本殿・拝殿は、水戸家9代藩主斉昭が再建したものです。
殷賑を極めた霊地
日本武尊が東夷平定の帰途、常陸を過ぎて兵をこの地朝日山に留めて憩わせた故事を以って、この地に神社を創建し尊を奉祀した。尊の御休憩の場所は今日も三角山と称し境内見晴台の一角を占め、神聖な処として伝え残されている。
創建の年紀は詳らかではないが、当社の古文書によれば正安4年(西暦1301年)は、御創建以来800余年に当たるとあるので、これより推定すると、顕宗天皇(485)と仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。
後に後鳥羽天皇は建久4年(1193)国司に勅して社殿を改造せられ12月遷宮式を行い、これより後は鹿島神宮(旧官幣大社)の遷宮についで当社の遷宮が行われるのを例とした。次いで亀山天皇は弘長元年(1261)2月20日本社の神位を従一位より正一位に進め、後陽成天皇の父、誠仁親王は天正4年(1576)に御手ずから第三宮の三字を記され、大宮司田所清恒に賜り当社の扁額とされた。更に後光明天皇の慶安元年(1648)10月には、大将軍源家光が「吉田宮印」の朱印を下され、権中納言源頼房は水戸に封ぜらるるや尊の功烈を慕われ、その子贈大納言源光圀に至っては、尊崇最も敦く旧制に従って本殿(神明造)拝殿・神殿・神楽殿・宝蔵・階・玉垣等を造営し、八乙女・神楽男五人を置き盛大な斎祀を行われた。
現在においても尚毎年10月中旬の金・土・日曜には、旧下市周辺を挙げて盛んな神輿渡御の神事が行なわれ、細谷町舟渡の那珂川岸に渡御することは今も古例の通りである。尊が朝日山に憩わせ給うた折、舟を藤蔓でつないでこの朝日山に登られたと伝えられ、今に存する藤柄町の町名はこれより出たものであるとされている。
現在三角山のある一角は、見晴台と呼ばれ茨城百景の内でも、特に優れた勝地と称えられているが、この高地に立てば一望千里水戸市を眼下に収め、視界の及ぶところ近くはひたちなか市、湊の反射炉、遠くは阿武隈山脈のなだらかに起状しつつ静かに尾を引き彼方に達し、まことに史蹟と眺望とを兼ね備えた天下有数の神域である。
創建の年紀は詳らかではないが、当社の古文書によれば正安4年(西暦1301年)は、御創建以来800余年に当たるとあるので、これより推定すると、顕宗天皇(485)と仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。
後に後鳥羽天皇は建久4年(1193)国司に勅して社殿を改造せられ12月遷宮式を行い、これより後は鹿島神宮(旧官幣大社)の遷宮についで当社の遷宮が行われるのを例とした。次いで亀山天皇は弘長元年(1261)2月20日本社の神位を従一位より正一位に進め、後陽成天皇の父、誠仁親王は天正4年(1576)に御手ずから第三宮の三字を記され、大宮司田所清恒に賜り当社の扁額とされた。更に後光明天皇の慶安元年(1648)10月には、大将軍源家光が「吉田宮印」の朱印を下され、権中納言源頼房は水戸に封ぜらるるや尊の功烈を慕われ、その子贈大納言源光圀に至っては、尊崇最も敦く旧制に従って本殿(神明造)拝殿・神殿・神楽殿・宝蔵・階・玉垣等を造営し、八乙女・神楽男五人を置き盛大な斎祀を行われた。
現在においても尚毎年10月中旬の金・土・日曜には、旧下市周辺を挙げて盛んな神輿渡御の神事が行なわれ、細谷町舟渡の那珂川岸に渡御することは今も古例の通りである。尊が朝日山に憩わせ給うた折、舟を藤蔓でつないでこの朝日山に登られたと伝えられ、今に存する藤柄町の町名はこれより出たものであるとされている。
現在三角山のある一角は、見晴台と呼ばれ茨城百景の内でも、特に優れた勝地と称えられているが、この高地に立てば一望千里水戸市を眼下に収め、視界の及ぶところ近くはひたちなか市、湊の反射炉、遠くは阿武隈山脈のなだらかに起状しつつ静かに尾を引き彼方に達し、まことに史蹟と眺望とを兼ね備えた天下有数の神域である。