東叡山 寛永寺

 
 
 
増上寺の次に
 
東叡山  寛永寺 に向かいました
 
途中チョット東京駅前なんかを通ってみたが
 
コレ 今は味も素っ気もないってヤツ(^o^)ハハハ 東京駅八重洲口「グランルーフ」は9月20日、駅前広場は2014年秋の完成予定。
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で,その寛永寺ですが 
 
此処です 東京国立博物館となり,上野動物園の近くなんです
 
 
が・・・。。
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殆どが 撮影禁止 で   w(`o`)w Oh My God!!
 
根本中堂のみデジカメ出来ました
 
 
 
 
寛永寺に来たのは
 
徳川慶喜 謹慎の間・葵の間を見学する
 
徳川将軍御霊廟 を見学する
 
お隣の谷中霊園慶喜墓所を訪ねる ためです
 
 
 
全く撮影できないので 栞や
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ホームページから
 

色々とお借りしました
 
 
寛永二年(1625)慈眼大師天海大僧正(じげんだいしてんかいだいそうじょう)によって創建されました。
徳川家康、秀忠、家光公の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立しました。
これは平安の昔(九世紀)、桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖伝教大師最澄上人(でんぎょうだいしさいちょうしょうにん)が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならったものです。
そこで山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。
さらに寺号も延暦寺同様、創建時の元号を使用することを勅許され、寛永寺命名されました。やがて第三代の寛永寺の山主には、後水尾天皇の第三皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになりました。
そして朝廷より山主に対して輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜(かし)され、輪王寺宮は東叡山寛永寺のみならず、比叡山延暦寺、日光山万願寺(現 輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)といわれ東叡山に在住し、文字通り仏教界に君臨して江戸市民の誇りともなりました。
           
 
此処寛永寺には6名の将軍(4代家綱公 5代綱吉公 8代吉宗公 10代家治公 11代家斉公 13代家定公 )の霊廟があります
寛永寺にある将軍霊廟は第二次大戦の空襲により殆どが消失し,勅額門と水盤舎を残すのみとなりましたが,宝塔部分は難を逃れ往時を偲ぶことができます。
 
宝塔鋳抜門 イメージ 4
 
 
 
 
15代将軍慶喜公謹慎の間 葵の間 
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1868年2月12日から4月11日まで謹慎されていました
 
この地へ移築した際,旧材のみを用いたため12畳半,10畳の二間続きであったものが,現在の様な10畳,8畳の形になっています
 
栞からの画像なのでボケています
 
 
 
画像が無いので ・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
 
寛永寺から寛永寺谷中霊園へと移動して 慶喜公の墓所を見学しました
 
途中 行列ができていて何かと思えば フランス菓子 パティシエイナムラショウゾウのお店でした
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寛永寺谷中霊園では,案内の標柱が小さくて案内の方がいなければなかなか見つけ難かったです
 
 
慶喜墓所 左が慶喜公右が美賀子婦人の墓です 手前は徳川慶喜公事蹟顕彰碑
葺石円墳状の墳墓ですね
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朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである
                                  WIKIペディアより
 
こんな風な柵の中に 慶喜公と美賀子婦人の外に側室達の墓もある
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ここには比較的多くの人たちが見学していて,海外からの旅行者も何人もいました
 
 
 
 
寛永寺は敷居が高いなぁ~
 
特別参拝で予約制でした
 
流石は徳川将軍家墓所も今でこそ宝塔しか見られませんが 写真で見る霊廟などの華麗な建築物などは目を見張るようです
歴代の将軍様は宝塔の下に安らかに眠っておられます(霊廟様式では宝塔はお墓ではないそうです)
 
 
 
このGW 滅多に見学できない徳川家の霊廟を参拝し
 
また徳川慶喜公の歴史に触れる事が出来 貴重な体験ができたと思います
 
 
 
 
 
 
 
デジカメ出来ないところを何時もの調子でブログに書くというのは可也難しいですね 何書いてんだか?と言う様な記事になって仕舞いました/(-_-)\